クリスチャンというと、良い人になろうと頑張っている人たち、というイメージを持たれることがあります。実際、そう見えても不思議はないと思うのです。
多くの日本人にとって、宗教というのは、自分を律し、努力を重ねて、少しずつ正しい人間に近づいていく道、というイメージが強いのではないかと思います。毎朝仏壇に手を合わせたり、困ったときにお守りを買い求めたりする中で、「人様に迷惑をかけないように」「清く正しく」と自分を律することを、美徳として教えられてきたからです。私自身も、クリスチャンになる前は、そう思っていました。日曜に礼拝に行き、聖書を読み、なんとなく品行方正な人たち。自分にはとても真似できそうにない、と。
でも、聖書を読み進めていくと、拍子抜けするくらい逆のことが書かれていました。
聖書には、こうあります。「私たちがまだ罪人であった時、神はキリストを遣わしてくださいました。そのキリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに大きな愛を示してくださったのです」(ローマ人への手紙5章8節)。「罪人」と聞くと、法律を破るような人を思い浮かべるかもしれません。でも聖書が言う「罪」は、そういう意味ではありません。もとの言葉は「的を外す」という意味に近いのです。まっすぐ生きたいと思っているのに、ふとした心の揺らぎで、本来向かうべき道から外れてしまう。誰かを妬んだり、大切な人を傷つけたり、自分を偽ったり。多かれ少なかれ、誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。聖書はそういう状態を、あえて「罪」と呼びます。「ちゃんとした人になってから」ではなく、的を外したままの状態のところに、神様のほうから先に動いてくださった、ということです。
正直、これは都合が良すぎて、最初は疑いました。頑張った分だけ評価される、というのが、私たちの生きる社会のルールです。受験の合格や病気の平癒を願って手を合わせるのも、突き詰めれば、誠実さへの見返りを求める感覚と、どこかでつながっている気がします。ところが聖書には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ人への手紙2章8〜9節)とあります。行いによらない、とはっきり書いてあるのです。テストで言えば、名前を書いただけで満点をもらうようなものです。正直、落ち着きません。
けれど、落ち着かないなりに、少しずつわかってきたことがあります。この「頑張らなくていい」は、「何をしても良い」という話ではありません。「あなたを愛する条件は、もう満たされている」という話なのです。
つまり神様は、こんなふうに語りかけているのだと、今は思っています。「あなたが立派になれたら愛するのではない。迷子になったまま、立ち止まったまま、自分を責めたままでも、わたしはあなたを宝物のように大切に思っている。助けが必要だから、わたしはあなたのそばにいるんだよ」
これは聖書からの正確な引用ではありませんが、聖書を読むたびに、そういう声が聞こえる気がします。
では、なぜ「頑張らなくていい」が「何をしても良い」にはならないのでしょうか。人が手を抜きやすくなるのは、たいてい、相手にとって自分が取り替えのきく存在だと感じるときです。逆に、自分という一人の人間として大切に見てくれている相手のことは、たとえ縛るルールがなくても、そう簡単には裏切れないものです。ここで語られている愛は、義務を果たせば手に入る取引ではなく、あなたという個人に向けられた、個人的な愛情です。だから「何をしても良い」という開き直りは、この愛の性質そのものと、そもそも噛み合いません。
愛されたいから頑張るのではなく、すでに愛されているから、私自身の生き方が、少しずつ変わっていく。愛されることと頑張ることの順番が、そもそも逆なのです。
聖書にはこう書かれています。「神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです」(ヨハネの福音書3章16節)。世界、という大きな言葉の中に、都合よく自分も含まれているのか、最初はぴんときませんでした。自分がその中に含まれているということを、私自身、今もときどき忘れてしまいます。それでも、そのたびに思い出すと、少し肩の力が抜けます。
「品行方正な人たちの集まり」というクリスチャンに対するあなたのイメージには、少し補足が必要かもしれません。
クリスチャンが目指しているのは、そもそも「品行方正であること」自体ではないからです。行いを整えることが入り口なのではなく、整わないままの自分を、先に受け入れてもらうことが入り口なのです。とはいえ、これは「品行方正でなくてもいい」という話でもありません。すでに受け入れられているからこそ、生き方は、少しずつ本当に整えられていく。行いは入り口ではなく、後からついてくるもの、というほうが近いのだと思います。私たちが日本人であるなら、八百万の神々を敬い、目に見えないものに手を合わせてきたあの感性を、否定する必要はないと思っています。ただ、その優しいあなたの感性の片隅に、あなたの努力とは関係なく、すでにあなたを見つけて待っている方がいる、ということだけは、知っておいてほしいのです。