先日、友人たちと一泊二日の旅行に行きました。特に信仰の話をしたわけではありません。それぞれの趣味のこと、仕事のこと、子育てのこと。ごくふつうの会話でした。それでも、その会話の端々に、みんなが「これだけは譲れない」と思っている何かが見えて、妙に眩しく感じました。自分の時間やエネルギーを、限られた人生のどこに注ぎ込むかを、それぞれのやり方で選び取ってきた。そういう輪郭のはっきりした「自分」が、そこにあったのです。
その帰り道、ふと気づきました。自分にはそれがない、と。
あの日、皆さんが語っていた「これだけは譲れないもの」は、とても素敵でした。それだけに、自分には同じように胸を張って語れる何かが見当たらないことを、なおさら痛感させられました。まるで、どこかの駅で降りそこねたまま、行き先のわからない電車にひとり揺られているような、そんな心細さがありました。
私は子どもの頃からずっと、家族のことで心をすり減らしてきました。家庭の中で起こったさまざまな出来事や、うまく言葉にできない葛藤が、いつも心の中心を占めていて、本来向き合いたかったはずのことに、十分な余裕を持てないまま大人になりました。挑戦できたかもしれないことを見送ってしまったり、踏み出せたはずの一歩を自分から引っ込めてしまったりした経験が、折にふれて思い出されます。あの時ああしていれば、と考え出すときりがありません。
気がつけば、人生の折り返し地点をとっくに過ぎたと感じる歳になっていました。まだ続きがあるはずだと頭ではわかっていても、「では、自分はこれまで何を望み、何を成し遂げたかったのか」と静かに問われているような気がすることがあります。しかし、その問いに、はっきりとした言葉で答えることができません。自分のことなのに、霧の中にいるみたいです。手を伸ばせば届きそうなのに、輪郭がつかめない。
ただ、こうした重たい問いを四六時中抱えているわけではありません。実際のところ、朝いちばんに考えるのは「今日は何を着ようか」くらいのことで、人生の意味は大抵二の次です。人間、大体そんなものだと思います。ただ、ふとした瞬間に、この重さがふっと顔を出すのです。今回の旅行が、まさにそういう瞬間でした。
クリスチャンとして、これまで「自分の人生を神様に委ねたい」と願いながら歩んできました。それでも現実には、家族への複雑な思いや、正体不明の苛立ちは、祈ったからといって簡単に消えてくれるわけではありません。信仰を持っているのだから、もっと穏やかに生きられたらと望みつつ、実際には同じところでつまずいてしまう自分がいます。そのせいで、「こんな自分がクリスチャンを名乗っていいのか」と思う日もあります。世間が思い描くクリスチャン像というのは、たぶん、もう少し落ち着いていて、もう少し答えを持っている人たちのことなのでしょう。少なくとも私は、そうだと思い込んでいました。でも、どうやら大間違いだったようです。クリスチャンというのは、悩みがすでに解決した人のことではなく、むしろ、悩んだままでいい場所を教えてもらった人、というほうが近い気がします。
そんなとき思い出す言葉があります。「重い束縛を受けて、疲れはてている人たちよ。さあ、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげましょう」(マタイの福音書11章28節)。イエス様は、こう言っています。「悩みを解決してから来なさい」ではなく、悩んだまま来ていい、と。当たり前のようで、これは地味に画期的なことだと、私は思っています。
自分で自分がわからなくても、聖書はこんな祈りを教えてくれます。「ああ神よ。私の心を探り、内面を調べ上げてください」(詩篇139篇23〜24節)。自分より先に、神様のほうが私を知っている。そう考えると、少し肩の力が抜けます。答えを自分ひとりで探し当てなくていいのだ、と思えるからです。
「わたしはどんな場合にもあなたの期待にそむかず、あなたを見捨てない」(ヘブル人への手紙13章5節)という約束も、正直まだうまく受け取りきれていません。それでも、輪郭のぼやけた自分のまま、この約束のそばに立っていたいと思っています。
答えの出ない手紙になってしまいました。それでも、迷いながら歩いている人間がここに一人いる、ということだけは、あなたに知っておいてほしいのです。