# 神様と共に歩む人生 # 入門 # 恵み # 十字架

神様との個人的関係にほんの少し関心を持たれた皆さんに

神様との個人的関係にほんの少し関心を持たれた皆さんに

聖書やキリスト教、神様との個人的関係に、ほんの少し関心を持たれた皆さんにお伝えしておきたいことがあります。

私たちは日本という、美しい八百万(やおよろず)の神々の文化や、静かな仏教の教えが息づく国で育ちました。道端のお地蔵様に手を合わせたり、お正月に神社の清々しい空気に触れたりする。そんな、目に見えないものを敬う日本人の感性は、本当に尊いものだと私は思っています。私も、そうした日本の伝統が持つ「調和」や「謙虚さ」を心から大切にしたいと考えています。

でも、そうした素晴らしい文化の中にいても、ふと「これだけでは解決しない、心の渇き」を感じる瞬間はないでしょうか。

例えば、私たちは「人様に迷惑をかけないように」「清く正しく」と、自分を律して生きることを良しとします。それは美しいことですが、同時に「正しくいられない自分」を責めてしまったり、誰にも言えない弱さを抱えて孤独を感じたりすることもあります。仏教の教えでも「自律」や「悟り」が説かれますが、それは時に、自分の力だけでどこまでも努力し続けなければならない、険しい道のりのようにも感じられます。

実は、キリスト教が提案しているのは、そうした「自分の力で頑張って辿り着く救い」とは、真逆の道なのです。今日は、その少し不思議で、あなたにとって圧倒的に優しい物語をお話しさせてください。

まず、キリスト教と聞いてすぐに思い浮かぶのは「聖書」ではないでしょうか。「聖書」は私たちクリスチャンにとってとても大切なものですが、その一方で、皆さんが思っているほど「難解な人生マニュアル」のようなものではないということをお伝えしたいと思います。

聖書には、大きく分けて「旧約」と「新約」という二つの物語があります。

まず前半の「旧約聖書」は、神様が人間に「本来、人間はこれほどまでに美しく生きられる存在なんだよ」という理想の姿を示した記録です。ユダヤ教の方々は、この理想を自分の努力で一歩ずつ実現しようと努めます。それはとても高潔な歩みです。

しかし、人間にはどうしても「弱さ」があります。どれほど願っても、つい誰かを羨んだり、自分を偽ったり、大切な人を傷つけてしまったり……。

聖書では、こうした「心からの願いとは裏腹に、どうしても本来の道からズレてしまうこと」を、あえて「罪」という言葉で表現します。これは決して、世の中で言う「犯罪者」という意味ではありません。もともとの言葉の意味を辿ると、「本来進むべき道から、ふと足を踏み外してしまう」という、とても人間味のある状態を指しています。

私たちはみんな、自分も周りも幸せにするような「真っ直ぐな道」を歩きたいと願っています。それなのに、ふとした心の揺らぎで足元がふらつき、いつの間にか道に迷ってしまう。聖書の中で、神様はそのような「迷子」を愛おしい存在なのだと、優しく語りかけているのです。

「新約聖書」が語るのは、その迷子になった私たちのために、神様が取られた驚くべき行動です。
他の多くの宗教では、神様は天の高いところにおられ、人間が修行や努力をして、その高みまで登っていくものとされています。例えばイスラム教でも、神様(アッラー)は絶対的な超越者であり、人間は一生懸命にその意志に従おうとします。
ところが、キリスト教の神様は違いました。
「人間が自分の力でここまで登って来られないのなら、わたしが彼らのところまで降りていこう」
そう言って、私たちの住むこの泥臭い、悩み多き世界に、イエス・キリストという一人の人間として降りてきてくださったのです。これがキリスト教の核心です。

神様は、天の上から私たちを裁く「裁判官」ではなく、私たちの痛みや孤独を自分自身のものとして味わうために、隣に座りに来てくださいました。そして、私たちがどうしても射抜くことができなかった「人生の的」を、イエス様が代わりにすべて射抜いてくださり、「もう大丈夫だよ、あなたの失敗はわたしがすべて引き受けたから」と言ってくださった。それが十字架の意味なのです。

ここであなたに知ってほしいのは、キリスト教が語る神様の愛は、あなたが何かを頑張ったことへの「ご褒美」ではない、ということです。おおよそ私たちが生きている社会では「頑張った分だけ評価される」という条件付きの場所が多いですよね。
でも、新約聖書の中で、神様はこうおっしゃいます。
「あなたが立派になれたら愛してあげるのではない。迷子になり、立ち止まり、自分を責めているそのままで、わたしはあなたを宝物のように愛している。あなたがわたしの助けを必要としている、だから、わたしはあなたの隣にいるんだよ」
これが、キリスト教が最も大切にしている「恵み」という、理屈を超えた愛の形です。

さて次に、キリスト教を信じることによって、あなたは豊かになれるのかという疑問にお答えします。
日本に住む私たちにとって、神様にお祈りをしたり、お供えをしたりすることは、とても身近な習慣です。受験の合格、病気の平癒、家族の安全……。そうやって目に見える「ご利益」を願う心は、一生懸命に生きているからこそ湧いてくる、とても自然で真っ直ぐな願いだと思います。神様も、あなたがそのように日々の暮らしを大切に願うことを、決して否定はされません。

ただ、一つだけ心に留めておいてほしいのは、聖書が語る「神様と共に歩む人生の豊かさ」は、そうした「願いが叶うかどうか」という結果よりも、もっと深いところにあるということです。
もし、神様を信じることが「金銭的に裕福になること」や「病気や災難が完全になくなること」だとしたら、その願いが叶わなかったとき、私たちの心は行き場を失ってしまいます。

本当の豊かさとは、人生に激しい嵐が吹くときでも、心の奥底に決して消えない「絶対的な安心感」があることです。
それは、自分の力で幸運を掴み取るというよりは、「宇宙を造られた方が、わたしの味方でいてくれる。わたしのすべてを知った上で、絶対にわたしを諦めない方が、今日も隣を歩いてくれている」という動かない事実の中に、自分の身を置くことです。

この確信があるとき、私たちは目に見える成功や失敗に振り回されなくなります。たとえ思い通りにいかないことがあっても、あるいは社会的な地位や健康を一時的に失ったとしても、あなたという存在の価値は、神様の目から見て一ミリも変わることはありません。
嵐が止むことを願う以上に、嵐の中でも沈まない大きな船に乗っているような、そんな「根源的な安らぎ」こそが、神様があなたに一番贈りたいと願っているギフトなのです。

これからあなたがもし聖書を読む機会があったら、聖書の中で「罪」や「裁き」といった、聞き慣れない強い言葉に出会っても、どうか怖がらないでくださいね。それは、「あなたをどうしても自由にしたい」という神様の、あまりにも一途な情熱の裏返しなのです。

一度にすべてを理解しようとしなくて大丈夫です。ただ、日本の八百万の神々を敬うその優しい心の片隅に、「あなたという個性を、名前で呼んで愛している一人のお父さんのような存在」を、そっと招き入れてみてはいかがでしょうか。

まずは、今のあなたの正直な思いを、空を見上げて呟いてみることから始めてみてください。神様は、あなたのその小さな声を、ずっと楽しみに待っておられます。

あなたのこれからの歩みが、形ある豊かさを超えた、魂の深い安らぎと、決して尽きることのない希望に照らされますように。

心からの祈りを込めて。