# 神様と共に歩む人生 # ヨブ記 # 苦しみ # 慰め

苦しみに理由をつけなくてもいい

苦しみに理由をつけなくてもいい

先日、教会の聖書の学び会で、旧約聖書のヨブ記を読みました。今日はそこで考えたことを、できるだけ普通の言葉で書いてみます。専門家ではないので、結論に誘導するつもりはありません。ただの感想文だと思って読んでください。

主人公ヨブは、誠実で信仰深く、暮らしも安定した人でした。ところがある日、理由の説明もなく不幸が重なり、財産も家族も健康も失います。何の前触れもなく、すべてが一度に崩れていく。読んでいるだけで胸が痛くなる展開です。

見舞いに来た友人たちは、最初こそ黙って寄り添いますが、そのうち「これほどの苦難には原因があるはずだ」と言い出します。要するに「あなたが悪いのでは」です。慰めに来て説教を始める、というのは今も昔も変わらない人間あるあるかもしれません。誰かの不幸を前にすると、つい理由を探したくなる。それは相手のためというより、自分が安心したいからなのかもしれません。「自分にはそんなことは起きない」と思いたいのです。

正直、私にも似たようなところがあります。誰かの体調不良や失敗を聞くと、無意識に「何か原因があったのでは」と考えてしまう。あなたにも、そういう瞬間、心当たりはありませんか。それは半分心配で、半分は、自分の身に置き換えないための予防線なのだと思います。理由さえわかれば、自分だけはそこを避けて通れる気がしてしまうのです。そう考えるたびに、ヨブの友人たちを笑えないな、と思わされます。

ヨブはこの決めつけに納得せず、神に向かってかなり強い言葉で訴え続けます。沈黙せず、言葉で抗議し続けるのです。きれいな祈りだけが正解ではない、と教えられる気がします。むしろ、黙って我慢することのほうが、時には不誠実なのかもしれません。

学び会の後、参加していた方々が、それぞれの苦しみについて分かち合う時間がありました。ある方は、交通事故で長い入院生活を送り、仕事も失い、絶望のふちに立たされたけれど、その都度神様を見上げることで支えられてきた、と話してくれました。理由が説明されたからではありません。見上げる先があったから、なんとか立っていられた、ということなのだと思います。

物語の終盤、ヨブはこう言い切ります。「救うお方は生きておられ」「新しい肉体で神を見る」「神は私の味方になってくださる」「見も知らぬお方ではなく、親しい友人であるはずだ」(ヨブ記19章25〜27節)。財産も健康も失い、理由も知らされないままの男が、それでも「私は知っている」と言い切ったのです。

キリスト教がこの言葉を大切にしてきたのには理由があります。ヨブの時代、この確信はまだ、根拠の薄い望みに過ぎなかったかもしれません。ところが新約聖書は、これが単なる願望ではなかったことを示します。「事実、キリストは死者の中から復活しました。そして、復活が約束されているすべての人の初穂となられたのです」(コリント人への手紙第一15章20節)。ヨブが理由もわからないまま握りしめていた望みは、イエス様の復活という出来事によって、実際に裏づけられた、ということです。ヨブ記のストーリーは、信じたい気持ち(個人的な感情)だけで支えられている話ではないのです。

聖書には他にも、こんな言葉があります。「私たちは四方八方から苦しめられ、圧迫されますが、押しつぶされ、打ちのめされることはありません」(コリント人への手紙第二4章8〜9節)。押しつぶされない、というのは、痛くない、という意味ではありません。潰れて終わりにはならない、という意味です。

苦しみに、わかりやすい理由を貼って片づけたくなる。私にもその癖があります。でもヨブ記は、その手を止めてきます。分からないままでいい、それでも神と向き合っていい、と。理由がわからないまま、誰かのそばに立ち続けることは、正直しんどいです。すっきりした説明があれば、どれほど楽かと思うこともあります。それでもヨブ記を読んだあとは、わからないまま隣にいることのほうが、案外、誠実なのかもしれないと思うようになりました。

聖書は読めばすぐ答えが出る本ではありません。でも、答えの出ない場所に、根拠のある望みを携えて一緒に立ってくれるイエス様がいることを、聖書は繰り返し伝えてくれます。もしあなたが今、理由のわからない何かを抱えているなら、その隣に立ってくれる方が、実はもういるのかもしれません。