「いつか、ちゃんと向き合おう」。そう思ったまま、月日だけが過ぎていくことが、私にはよくあります。片づけなきゃいけない部屋、返さなきゃいけない連絡、始めたいと思っている習慣。たいてい「そのうち」のまま、随分長く放置してしまいます。神様との関係についても、実は同じことが起きやすいのです。もう少し落ち着いてから、もう少し勉強してから、もう少し人生が整ってから。そうやって「準備が整う日」を待っているうちに、何年も経ってしまうことがあります。私自身、そうやって先延ばしにしていた時間が、正直かなり長くありました。
以前もご紹介したパウロが、コリントの教会に宛てた手紙にこう書いています。「恵みの時に、あなたの叫びはわたしに届いた。救いが差し出されている日に、わたしはあなたを助けた」(コリント人への手紙第二6章2節)。この直後に、「まさしく今、神様はあなたを喜び迎えようとしておられます。今日、あなたを救おうとしておられます」と続きます。準備が整うのを待っているのは、実は私たちのほうで、神様のほうはもう「今日」と言い切っているのです。この落差に、正直、最初は戸惑いました。
パウロのこの手紙は、あくまで「今、決めてください」という切迫した呼びかけです。ただ、この「今日」を、脅し文句のように受け取ってほしくはありません。「今日を逃したら終わり」という話ではなく、「今日から始まるものが、ちゃんとあります」という話だからです。
イエスは、神様との関係が始まることを、こんなたとえで語っています。「神の国をどう説明し、何にたとえたらいいでしょう。それは、小さなからし種のようです。からし種は種の中でも最も小さいものですが、成長すると、とても大きくなり、鳥が巣を作れるほどになります」(マルコの福音書4章30〜32節)。「神の国」というのは、神様が王として治めておられる、目に見えない領域のことです。その始まりは、拍子抜けするくらい小さいのです。今日蒔かれた種が、今日のうちに大木になるわけではありません。それでも、蒔かれた日から、成長はすでに始まっています。
先延ばしにしている間、実は何も始まっていません。ゼロのままです。でも今日、あなたの中で小さな種が蒔かれるとしたら、それは何年もかけて、少しずつ育っていくものになるはずです。何が育つのか、正直、蒔いた本人にもまだわかりません。それでも、これから伸びていく枝や、そこに巣を作る鳥のことを想像すると、私は今でも少しワクワクしてしまいます。振り返ってみると、私自身の中でも、最初は小さすぎて名前もつけられないような変化から、少しずつ物事が育ってきました。あのときの小さな一歩(つまり神様を受け入れた瞬間)がなければ、今の景色を私が見ることは、絶対になかったと思います。
イエスはまた、こうも言っています。「強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかしわたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです」(ヨハネの福音書10章10節)。「豊かないのち」と聞くと、お金や健康、人間関係の充実といった、目に見える願いが叶うことを思い浮かべるかもしれません。以前にも書きましたが、そうした「ご利益」を願う気持ちは、とても自然なものだと思っています。ただ、ここでイエス様が約束している豊かさは、そうした個別の願いが叶うことよりも、もっと土台に近い場所にあるものです。願いが叶うかどうかに関係なく、揺らがない土台そのものが、日ごとに育っていく。そちらのほうが、正直、ご利益よりもずっとすごいことだと、私は思っています。
種を蒔く日を、あなたは選べます。「いつか、機が熟したら」と先延ばしにしている間も、時間だけは過ぎていきます。難しい準備は何もいりません。今日、心の中で、小さく「神様、あなたを知りたいです」と呟くだけで、種は蒔かれます。あとの成長は、あなたの力でどうにかするものではなく、蒔いてくださった方に、そのまま委ねておけばいいのです。何が育つのか、私もあなたと同じくらい楽しみにしています。