# 神様と共に歩む人生 # 罪 # 十字架 # 恵み

壊れたままで、来ていい

壊れたままで、来ていい

理由もなく自分を責めてしまう。大事にしたい人を、つい傷つけてしまう。もっとまっすぐ生きたいのに、気づけば同じところでつまずいている。やめたいと思っているのに、ある欲求に、つい流されてしまうこともあります。生きているのに、なぜかいつも満たされない。自分の人生や境遇への不安・不満というものは、誰にでも多少なりともあるものだと思います。

そのような「人生・境遇に対する不安・不満」を解決できる、ただ唯一の方法があるとしたら、あなたはその方法を知りたくないでしょうか。ただし先にお伝えしておくと、その方法は、今抱えている「目の前の」問題そのものを消してくれるとは限りません。それでも、その不安や不満を抱えたままでも、あなたという存在の土台そのものは揺らがなくなる方法があるとしたら、少し興味が湧きませんか。

その答えは、聖書に書かれています。聖書では、「人生・境遇に対する不安・不満」を抱えている状態を「罪」と呼びます。聖書に書かれている「罪」とは「悪いことをした」という意味だけではありません。もっと根本的な話で、自分自身の心と体の関係、人との関係、そして神様との関係が壊れている、ということを指しています。こうした「さまざまなものが壊れた状態」が積み重なると、人は本来つながっているはずのいのちの源、つまり神様から離れていってしまうのです。もし神様が、正しさだけを求める裁判官のような存在なら、壊れてしまった人間を見限っても不思議はありません。でも聖書が描く神様は、そうではないのです。壊れた関係を放っておけず、「道に迷い不安のどん底にいるあなた」を探しにきてくださる方として描かれています。そのために神様がとった行動が、イエス・キリストという形で、この世界に来てくださったことでした。

イエス・キリストは、今から二千年ほど前に、実際にこの地上を生きた人物です。ただ立派な教えを語った人、というだけではありません。聖書は、この方を「神の子」と呼んでいます。人間離れした特別な人、という意味ではありません。キリスト教では、父なる神・子であるキリスト・聖霊が、三つの人格(位格)でありながらただ一人の神である、と教えられています(三位一体と呼ばれる考え方です)。イエス様は、その神の子として、自ら人間となって、この世界に来てくださった、ということです。
そのイエスは、最後、十字架にかけられて、亡くなりました。

たとえば、あなたが大切にしている人を、深く傷つけてしまい、どう埋め合わせをしても、もう元には戻せない、というような場面を想像してみてください。
その埋め合わせをあなた自身がするのではなく、傷つけられた相手が自ら引き受けて、帳消しにしてくれたとしたら、どうでしょうか。

聖書が伝えているのは、これに近いことです。
神様と人間との関係に、あなた自身の「罪」によって取り返しのつかない壊れが生じてしまった。
その埋め合わせを、罪を犯したあなたではなく、神様ご自身が、人間となったイエス様として、自らの命と引き換えに引き受けてくださった。
それが、十字架が象徴する神様の愛の意味なのです。

パウロという人物がいます。念のため触れておくと、パウロは、生前のイエス様と共に歩んだ十二人の弟子の一人ではありません。もともとは、イエス様の復活を伝え歩く人たちを迫害する側にいた人物でした。ところが、あるとき復活したイエス様ご本人に出会うという経験をし、そこから一転して、キリストを伝える側に回ります。新約聖書に収められている手紙の多く(聖書はイエス様自身が書いたものではありません)は、このパウロが、各地の教会に宛てて書いたものです。

そのパウロが、ローマの教会に宛てた手紙の中で、こう書いています。「私たちがまだ罪人であった時、神はキリストを遣わしてくださいました。そのキリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに大きな愛を示してくださったのです」(ローマ人への手紙5章8節)。少し前の部分には、こんな趣旨のことも書かれています。「人はよほどのことがない限り、正しい人のためにさえ命を差し出さない。せいぜい、本当に良い人のためになら、命を投げ出す者もいるかもしれない」。良い人のためになら、という前置きがあるからこそ、罪人のために、という部分の異常さが際立つのです。壊れた状態から、自然と神様との関係が直るのを待っていたのではなく、壊れたままの状態でありながら、神様のほうから先に踏み込んできてくださった。そういうことなのだと思います。

パウロは別の手紙、コリントの教会に宛てた手紙の中で、「キリストにあるなら、内側が全く新しくされる」と書いた直後に、この新しさがどこから来るのかを説明しています。
「神様は、キリスト・イエスの働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。……キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです」(コリント人への手紙第二5章18〜19節)。
数え立てず、帳消しにする、というのは、驚くほど私たち人間にとって都合の良い話です。

正直、この「罪を帳消しにしてくださる」という話は、出来過ぎのように聞こえるかもしれません。世の中、大抵のことは「差し出したものに見合うだけの見返りがある」という取引で成り立っていますから。でも十字架の話は、この感覚とはまるで噛み合いません。何かを差し出す前に、私たちはもう受け取ってしまっている、という話だからです。

では、受け取ってしまったものとは、いったい何なのでしょうか。天国行きの切符でも、何かの見返りでもなく、神様との間で切れていた関係が、もう一度つながり直すこと。それだけなのです。義務でも、取引でもありません。あなたが立派になったから招かれるのではなく、壊れたままの状態に、すでに手が差し伸べられている。そういう話なのです。「人生・境遇に対する不安・不満」そのものが消えるとは限りません。それでも、その不安・不満を抱えたまま立っていられる場所が、聖書では約束されているのだと、私は思っています。