# 神様と共に歩む人生 # 悔い改め # 赦し # 信仰生活

神様に赦されて変わっていく自分

神様に赦されて変わっていく自分

神様と共に歩みはじめたら、もう「頑張らなくていい」「そのままで来ていい」。そんな言葉を、聞いたことがある方も多いと思います。これは嘘ではありません。ただ、この言葉だけを聞くと、「じゃあ、このままで何も変わらなくていいんだ」と誤解されてしまうかもしれません。今日は、その誤解を、少しだけ解いておきたいと思います。

聖書は、罪についてこう言っています。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神が下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6章23節)。
簡単に言うと、罪をそのままにしておくと、私たちは神様からどんどん離れていってしまう、ということです。これまで何度か、罪とは「本来の道を外れる」という意味であり「犯罪」という意味ではない、とお伝えしてきました。しかし「道を外れる」という状況は、単に「ちょっと迷子になってしまいました」というほど軽い話だとは思っていません。放っておけば、自分自身との関係も、人との関係も、神様との関係も、根こそぎ壊してしまう、重たいものだと感じています。

誰かにひどい態度を取ってしまった夜、そのことがずっと心に引っかかって、自分のことも、相手のことも、うまく信じられなくなる。あの感覚を大きくしたものが「道を外れた状態」に近いかもしれません。神様は、そんな私たちを見捨てず、そこから抜け出す道を、無償の贈り物として差し出してくださいました。

この贈り物を受け取ったとき、私たちの内側には、ある変化が起きます。聖書はそれを「悔い改め」と呼びます。日本語だと「悔い改め」は「反省する」「後悔する」という意味と同じに聞こえるかもしれませんが、もとの言葉は「方向を変える」という意味に近いものです。聖書にはこうあります。「神様は時々、罪を断ち切り、永遠のいのちを求めさせるために、私たちに悲しみを与えます。……しかし、この世の人の悲しみは、真の悔い改めに導く悲しみではないので、永遠の死を食い止める力がありません」(コリント人への手紙第二7章10節)。落ち込むだけで終わる悲しみと、実際に方向を変えるところまで導く悲しみは、違うのです。

ここで、少しだけ順番の話をさせてください。「悔い改めたから赦される」のではありません。「神があなたを罰しもせず、長いあいだ待っていてくださったのは、罪から離れるのに必要な時間を与えるためでした。神の愛は、あなたを悔い改めに導くためのものです」(ローマ人への手紙2章4節)とあります。神様の忍耐と愛が先にあって、それが、方向を変える力そのものになる。そう考えると、悔い改めは、赦しを勝ち取るための代金ではなく、すでに赦されたことに気づいた人の、自然な反応なのだと思えてきます。

この反応は、心の中だけの話では終わりません。「このように、信仰に行いが伴わなければ、その信仰は死んだも同然です」(ヤコブの手紙2章17節)ともあります。念のため付け加えると、これは「行いを積めば積むほど救われる」という話ではありません。順番はあくまで、赦された後に、行いがついてくる、というものです。ちょうど、生きている人が呼吸をするのであって、呼吸をするから生きているのではない、というのと似ています。行いは、命が実際にそこにある証拠であって、命を手に入れるための取引材料ではないのです。実際、それまでなら見過ごしていた誰かの言葉に、少しだけ丁寧に耳を傾けてみようと思えたり、意地を張っていた相手に、こちらから先に頭を下げてみようと思えたり。そんな小さな変化として、姿を現すことが多いように思います。

正直に言うと、私自身、この「方向転換」は一度きりのものではなく、何度も繰り返しているような気がします。同じところでつまずいて、また向き直って、また少しずつ歩き出す。その繰り返しです。一度で完璧に向きを変えられる人など、たぶんいません。むしろ、何度も同じ場所でつまずくからこそ、この赦しが一度きりの取引ではなく、そのたびに差し出され続けているものなのだ、ということが、少しずつわかってくる気がします。方向を向き直すたびに、自分の力で頑張って軌道修正しているというより、すでに差し出されている手に、もう一度手を伸ばしているだけなのだと感じています。頑張らなくていい、ということと、何も変わらなくていい、ということは、同じではありません。その違いを、今日はお伝えしたかったのです。