最近、弟子訓練について心に示されることが多くありました。聖書を読み返してみると、やはり「弟子として生きること」と「弟子を育てること」は、主イエスご自身がとても重んじておられるテーマだとあらためて感じます。同時に、私たち人間の側の焦りや思い込みによって、信仰を「押しつけるかたち」にしてしまう危険もあると感じています。今日は、その両面について、いくつかのみことばを交えながら、心にあることを分かち合いたいと思いました。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19–20)
ここで主は単に「決心させなさい」とか「信じる人を増やしなさい」とは言われず、「弟子としなさい」とはっきり命じておられます。そして、その内容も「命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」と続きますから、弟子訓練とは、表面的な知識の伝達ではなく、主の教えが実際の生活の中で「守られ、生きられていく」ことを助ける歩みそのものなのだと分かります。
また、イエス様は地上で歩まれたとき、「群衆」に向かって語られただけでなく、「弟子たち」と特別な時間を持ち、個人的に教え、問いかけ、整え続けられました。「イエスは、十二弟子を呼び寄せて…彼らを遣わされた。」(マタイ10章参照)とあるように、主ご自身が「弟子たちをそばに呼び寄せ、教え、遣わす」という弟子訓練のモデルを見せてくださっています。
一方で、この「弟子訓練の重要さ」を強調するあまり、いつの間にか「人間の熱心さ」が先走ってしまう危険も感じます。私自身、「もっと早く成長してほしい」「早く変わってほしい」という思いが焦りとなり、それが相手への「プレッシャー」になってしまうのではないかと、よく考えさせられます。しかし、聖書ははっきりと、成長の本当の源は「神ご自身」であることを教えています。
「私は植え、アポロは水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。」(1コリント3:6)
弟子訓練や伝道において、どこまでが「自分が行う領域」で、どこからが「神の御業の領域」なのかを教えてくれているみことばだと感じます。私たちは「植える」ことや「水を注ぐ」ことに忠実であればよく、その「種がいつ芽を出し、どのように成長していくか」は神様の御手に委ねる必要があるのだと心に留めさせられます。
この「委ねる」という姿勢は、「相手をコントロールしない」ということともつながるように感じています。信仰は、本来、神様とその人との間に結ばれる、非常に個人的で深い関係です。もちろん、私たちは福音を語り、励まし、教え合うように招かれていますが、「信じること」や「従うこと」を無理やり外側から押しつけることはできませんし、すべきでもないのだと思います。そして、イエス様ご自身も、決して人を強制的に従わせるような関わり方はされませんでした。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)
ここで「ついて来たいと思うなら」と語られているように、主はいつもその人の自由な応答を尊重しておられます。主は招かれますが、強制されることはありません。この「招きつつ、強要しない」スタイルは、私たちが弟子訓練や伝道を考えるうえで、大切な模範だと感じます。
「天の下では、すべてに季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道者の書3:1)
神様にはその人その人に対して、ふさわしい「タイミング」と「プロセス」があるのだと思います。そして、その時を早めるために、私たちが必要以上に急かしたり、プレッシャーをかけたりする必要はありませんし、むしろそれは妨げになることすらあるかもしれません。
パウロは「こういうわけで、だれであれ人をさばいてはなりません。主が来られるまでは。」(1コリント4:5)と言い、神様の時と評価に信頼するよう勧めています。弟子訓練や伝道においても、「なぜもっと早く成長しないのか」「なぜ変わらないのか」と人の内面に対して裁きを下すのではなく、「神様がその人を扱っておられる最中なのだ」という信頼を持って関わることが大切だと感じます。
「慌てない」という点について、私たち自身の心の持ち方も問われるように感じます。主イエスは、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」(マタイ6:34)と語られ、また「あなたがたは落ち着いて、知れ。わたしこそ神である。」(詩篇46:10[口語訳系では「静まって知れ」])とあるように、神ご自身に信頼して心を静めることを招いておられます。弟子訓練も伝道も、「自分のプロジェクト」ではなく「神の御業に参与させてもらっていること」ですから、結果を自分でコントロールしようとするのではなく、「今日、与えられている一歩」に忠実であれば良いのだと考えさせられます。
大切なことは、「私たち自身も弟子であり続ける」という視点です。弟子訓練と言うと、「教える側」と「教えられる側」がはっきり分かれているように感じてしまうことがありますが、聖書は私たちすべてを「キリストの弟子」と呼び、主の前に等しく学び続ける存在として描いているのではないでしょうか。
「わたしは柔和でへりくだった者だから、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)
これは、教える立場にある者にも向けられている招きだと思います。もし私たちが、自分もなお「学ぶ者、変えられ続ける者」であることを忘れなければ、相手に対しても、少し長い目で、少し温かい眼差しで関わりやすくなるのではないかと思います。神様が私たちに対してしてくださっているように、失敗しても見捨てず、すぐに結果を求めず、忍耐をもって待ち続ける姿勢を、少しずつでも真似したいと願わされます。
このようにお伝えしますと、私の伝道に対する意識が少し消極的に感じられるかもしれません。しかし、私が考える「神様の計画に忠実に伝道する」というのは、熱心さを弱めることではなく、むしろ「神の御心と神のタイミングに合わせて、熱心であり続ける」ことです。
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)
この「霊に燃え」る熱心さは、人間的な焦りとは違います。人を急かす熱心さではなく、「神を信頼し、相手を尊重しながら、忠実に関わり続ける」熱心さです。
私たちの役目は、神様の計画を「代わりに進める」ことではなく、その計画に「従順に参与する」ことなのだと心に留めたいと思います。神様のほうが私たちよりも、その人を愛しておられ、その人の人生をよくご存じであり、最善のタイミングとアプローチをご存じです。その神様の御手を信頼しつつ、与えられた出会いや関係の中で、みことばを分かち合い、祈り、寄り添い、見守る――それこそが、慌てず、しかし軽くも扱わずに行う、聖書的な弟子訓練と伝道の姿ではないかと感じています。
拙い分かち合いですが、私自身への戒めと励ましとして書きながら、同時に兄弟姉妹にもシェアしたいと思いました。主が、あなたのなかで進めておられる弟子訓練の働き、また周りの人たちとの関わりの一つひとつを、豊かに導いてくださいますように。焦りではなく信頼をもって、一緒に主のペースで歩んでいけたらと願っています。