私たちの足跡とアクションプラン

「SearchlightClub(サーチライトクラブ)」はキリスト教・プロテスタントの信徒による、自主的な集まりです。
「サーチライトクラブ」は、

  1. 「サーチライト@」というとても自由な雰囲気のグループ
  2. 「エクレシア」という聖書に基づいた励まし合いのグループ

大きくこの二つで成り立っています。

「サーチライトクラブ」は2012年に始まった「English for Life」を源流とし、信仰を強要せず、人生の目的を共に考える場として発展しました。その後、2015年にトニー・ウッズ氏の活動を引き継ぎ、名称が「サーチライトクラブ」となり、アウトリーチ活動を中心に展開されました。
一方、「エクレシア」は栗原一芳先生が長年取り組んできたプログラムであり、聖書を通じて信仰を深め、励まし合う霊的なコミュニティとして、赤坂や池袋、丸の内、あるいはオンラインなど多くの場所で展開されてきました。
2020年にコロナ禍で対面の活動が制限された際、サーチライトクラブの主要なメンバーがこの「エクレシア」のプログラムを取り入れ、オンラインでの聖書学びが始まりました。
「サーチライトクラブ」はアウトリーチ活動を通じて多くの人々に信仰の入り口を提供し、「エクレシア」は信仰を強め霊的な繋がりを育む場として機能しています。これらは互いに補完し合う存在であり、信仰の実践において重要な「両輪」となっています。

大切なことなので、繰り返しますが。

  1. サーチライトクラブは信仰を強要しません。
  2. あるいは信仰や聖書解釈の議論の場でもありません。

サーチライトクラブの集まりでは信仰を強要することは絶対にありませんが、私たち自身の「信仰」により、様々な場面でお祈りをします。
この「お祈り」への参加は全く強制ではありません。
「聖書や神様について知らない方々」にとってはこの「お祈り」が衝撃的に感じられるかもしれませんが、そのような「神様への祈り方」があることを、知っていただくだけで十分です。
サーチライトクラブはそれくらい自由なコミュニティです。

このような個性的なコミュニティの生い立ち、必要性、将来のビジョンについて、この記事から知っていただけたら幸いです。

サーチライトクラブの源流、English for Life

サーチライトクラブの源流は、2012年に始まった「English for Life」という宣教活動でした。「秋葉原ライフグループ」とか「English for Life」とか、様々な呼び方があり正式な名称があったわけではありません。
正式な名称はさておき、この宣教活動は米国南部バプテスト教会から遣わされた宣教師、マーク・バズビー氏が起案し、秋葉原の「ある」オフィスを開放して開催されました。この集会のコンセプトは「人生の目的について考え、その目的を達成させるために支え合える仲間を作ること」でした。
当時「English for Life」は毎週木曜日に開催されており、毎月4回から5回、年間にすると50回以上の集会が休むことなく続けられました。
オフィスを開放するにしても業務の都合があったり、天候不良や、体調不良や、予期せぬ様々なトラブルがあっても「毎週木曜日の19時には全ての問題が解決」し、まさに「休むことなく」継続できた奇跡は、神様の働きとして強く心に留めておきたいところです。
また、常に私たちには新しい牧者が与えられてきました。それは新任の若い宣教師等で、日本語もまだまだ未熟な中で、「English for Life」という宣教活動の具体的なプログラムを考え実践してくださいました。新しい宣教師たちがやってきて、異なるプログラムが実施されてとしても、「English for Life」のコンセプトは「聖書を通じて人生の目的について考え、その目的を達成させるために支え合える仲間を一人一人増やしていきたい」という願いで一貫していました。ですから、私たちの集会には、聖書や神様について知らない方々も、積極的にお迎えし続けてきたのです。

サーチライトクラブについて

私たちに「サーチライトクラブ」という名称が与えられたのは2015年です。
当時、私たちの牧者は、宣教師のトニー・ウッズ先生でした。2011年の東日本大震災が起こるまでトニー・ウッズ先生が東北地方で展開していた活動、それが「サーチライトクラブ」です。
トニー・ウッズ先生が引退される時、私たちのグループは「サーチライトクラブ」の名称を引き継がせていただきました。「サーチライトクラブとは」という記事に、もう少し詳しい記載があります。
「English for Life」が「聖書や神様について知らない方々」にとっても親しみやすいプログラムでありアウトリーチに主眼があったのに対して、トニー・ウッズ先生のプログラムは、より積極的に聖書を学ぶスタイルに変化していきました。
実際のところ、この頃の集会の参加者は「聖書について理解がある人」が大半を占めました。プログラムや参加者の属性の変化はあったとはいえ、毎日の生活の中で聖書の言葉に耳を傾けることで、悩み多い日常生活を前向きに受け止めることが出来る知恵と希望を感じ、その結果として神様のへの信頼が生まれることが重要だ、という思いは「English for Life」の時代から、私たち共通した願いであったと思いますし、2012年から今日に至るまで、この願いは少しの揺らぎもなく、現在のサーチライトクラブへと引き継がれていると思います。
さて、2015年にトニー・ウッズ先生が引退することとなり、その後に私たちに与えられた牧者は、栗原一芳先生でした。この出会いが後の「秋葉原エクレシア」という活動につながっていきます。

エクレシアについて

2020年3月に新型インフルエンザ等対策特別措置法(コロナ対策法)が成立し同年4月に緊急事態が宣言されたことから、対面でのサーチライトクラブが実施できなくなったことをきっかけに、当時の主要なメンバーたちがオンラインでの聖書の学びを始めました。

オンラインでの聖書の学びは、主要なメンバーたちが「サーチライトクラブに多様な考えの“聖書や神様について知らない方々”を招こうとするとき、自分たちの信仰がより確固たるものではなくてはいけない」という使命感から、とても自然な流れで始まりました。
この時、聖書の学びあるいは「聖書について理解がある人」同士の励まし合いのとても素晴らしいプラットフォームとして、栗原一芳先生がすでに実践していたプログラムがあったので、私たちは迷うことなくその手法で学びを始めたのです。
そのプログラムこそが「エクレシア」でした。「エクレシア」という「聖書について理解がある人々」の集いは、栗原一芳先生のライフワークであり、すでに赤坂・青山・池袋などいくつかのグループが精力的に活動をしていました。私たちはこの活動のプログラムを取り入れさせていただいたのです。「エクレシア」についてはいずれ別の記事で紹介できればと思います。

そして始まったこの学びの時間には、当初は特別な名称が与えられたわけでもなく、毎月2回、土曜の早朝に、ごく自然な流れで継続されてきました。
このプログラムで学び始めた最初の頃は、実に真面目に聖書の解釈・議論をし、先生に正解を求め、ぎこちない学習を繰り返していましたが、次第に「神様への全面的な信頼があるからこその甘え」、そのようなカミングアウトもできるようになりました。口に出して告白することは憚られるような神様への甘えさえも、分かち合いつつ励まし合うことができる、これが現在も続いている「秋葉原エクレシア」の素晴らしい点です。そして、このような真に本音で信仰を語り合える兄弟達が、聖書の言葉を再び多くの人に届けたいという一致した願いで、2024年7月に、「サーチライト@秋葉原」が再開されることになりました。2020年3月から、共に励ましあってきた兄弟達は「サーチライト@秋葉原におけるホスト」でありメンターとして、活躍することになりました。
ところで、私たちが正式に「秋葉原エクレシア」という名称を与えられたのは、聖書の学びを自主的に行うようになってから4年後の、なんと2024年8月のことです。もちろん私たちは栗原先生のライフワークである「エクレシア」について理解はしていました。けれども、エクレシアが、聖書を受け入れた者が励まし合うコミュニティーであるのに対し、サーチライトクラブはそのようなコミュニティーの存在を知らせ広め、多くの方を招き入れる入り口であるという違いから、あえて「エクレシア」という名称を名乗ることはありませんでした。実際、栗原先生は「エクレシア」という考え方、コミュニティ形成に尽力されると同時に、TMCという活動全体の中で、路傍伝道を通じて、積極的に人々を「コミュニティー」に招き入れる、という活動にも精力的に取り組んでいらっしゃいました。「エクレシア」というコミュニティは、TMCの(栗原先生の)目標としたところではありますが、実はその「エクレシア」というコミュニティにいかに人々を招き入れるかという「入り口問題」は、栗原先生と私たちサーチライトクラブが、共通の課題として認識していました。
2024年7月の「サーチライト@秋葉原」再開後に、乱暴な言葉で言えば「聖書について知らず神様と出会っていない人々に提供するプログラム」「聖書について理解がある人々に提供するプログラム」両方の活動が明確に分けることができるようになり、私たちは初めて「秋葉原エクレシア」と名乗るようになりました。現在も、引き続きメンター達の学びは続いており、この学びの場を私たちは「秋葉原エクレシア」と呼んでいます。

「サーチライトクラブ」と「エクレシア」は、信仰の両輪

さて、私たちが揺らぎなく抱き続けた願いである「人生の目的について考え、その目的を達成させるために支え合える仲間」について、もう少し考えてみましょう。

【「サーチライトクラブ」と「エクレシア」は、信仰の両輪】というタイトルから誤解を受ける可能性がありますが、日曜礼拝に参加すること・・・、正しい教会生活とは・・・、そのような論点についてはこの場では触れません。

まず「人生の目的」について考察してみます。
個々人に、神様が与えてくださった賜物、使命は、異なります。「人生の目的」とは、つまり「個々人が神様から与えていただいた賜物」を上手に生かして、神様から示された使命を、神様の祝福と励ましにより誇りをもって遂行することにほかなりません。そして神様から示された使命遂行は、神様への信頼によってしか、なしえません。

聖書を部分的に引用して説明しようとするのは、あまり好きではないのですが、以下の箇所は前後の文脈も含めてとても有名な箇所だと思うので、少しだけ記しておきます。

「神はあなたがた一人一人に賜物を与えておられます。それぞれに与えられた賜物によって、互いに助け合い、神からのあふれる恵みを他の人と分かち合いなさい。」

ペテロの手紙Ⅰ 4:10、リビングバイブル

 

「自分のしようとすることをみな、主にゆだねなさい。 信頼する者を、主は助けてくださいます。 」

詩篇 37:5、リビングバイブル

仕事をしてる人なら職場での出来事や取引先とのやり取りで、イライラしたり、自分の思い通りにならないことに直面することもあります。職場だけではないかもしれません。家族関係や、友人関係、あるいは本当に個人的な自分自身の悩みなど、毎日の生活の中で、さまざまな問題に直面します。そのような現実的な問題について「どうか自分の思い描いた通りになりますように」そう祈り解決していただくことが、私たちの信仰の本質ではありません。
「サーチライト@秋葉原」のメンター達は、そのような「思い通りにいかない現実」の自己体験から、他の多くの皆さん(つまり、まだ聖書や信仰について受け入れる準備ができていないビジターの皆さん)が抱える悩みや苦しみに伴走しなくてはいけません。
メンター達の個人的な体験こそが、誰かの苦しみを理解し励まし合うことの原動力になりますし、その励ましは「個々人の個人的な体験」でしか実現できません。もちろん個人的な体験には、神様との個人的な関係も含まれています。
つまり「自分の思い描いた通りにならない現実」に対しても、自信と誇りを持って立ち向かうメンターの「生き様」こそが、神様への信頼の証となると思います。
サーチライトクラブは、そこに所属すること(参加すること)が重要なのではなく、メンターひとりひとりがそれぞれの方法で、証をする場であるということです。

証について補足しますが、聖書では「証」について、どのように書いてあるでしょうか。
「証」というと、奇跡的な体験、神様の召命、励まし、伝道の成果など「素晴らしい出来事を、素晴らしストーリーにまとめられたもの」そのように思うかもしれません。
実際、教会で聞く「証」は、実に模範的なお話が多く、それはそれで悪いことだとは思いません。
しかし、証とは「驚くべき奇跡と感動的な結末が用意されているストーリー」だけではないはずです。
例えば、私は、今朝食べた朝食について感謝はします。しかし、その朝食が、何か余程特別な状況でもなければ、いちいち感動的なストーリーに仕立て「証」として人に語ることはできませんし、仮に虚飾した朝食のストーリがあっても、それになんの価値があるのでしょうか。
もっとも「日々の糧」とは食事に限ったことではなく、知恵、希望、勇気、そのような私たちの信仰を支える様々な要素があることはもちろんのことで、どんな些細なことでも神様に感謝すべき出来事があることも事実でしょう。
いずれにせよ、毎日の出来事ひとつひとつに神様のご計画があることを知っているのに、自分の身に起きることを軽く見過ごす、そのような甘えについては「聖書について理解がある人」でさえもほとんどの人が身に覚えがあり、しかしそのような甘えについて口に出して告白することは憚られるてきたのではないでしょうか。
大切なのは、このような日常の祝福ひとつひとつと、人間の弱さの告白にこそ、証のヒントがあるのではないか、ということです。

サーチライトクラブは、聖書を通じて人生の目的について考え、その目的を達成させるために支え合える仲間を増やすための、証の場であり、アウトリーチのスタート地点だと思います。その証やアウトリーチの手法について、聖書には具体的に明示されていませんし、その成果を計れとも書かれていません(多分、間違いはないと思います)。
ただ、恐れることなく、とだけ書いてあるのです。
証も、アウトリーチも、それは「賜物」と「使命」、さらには神様によるタイミングによって、全く異なった道筋を辿ります。
その道筋がどのようなものであれ、たどり着くところは「神様への信頼」に自ずと集約されるのだと思います。
一人一人が、自分にできることを「恐れずに」粛々とこなしてゆく、そのために「私は今何をすべきですか」と常に祈り続け、神様から示された使命を「個々人が神様から与えていただいた賜物」を用いて、サーチライトクラブで大いに発揮したいと思っています。

「サーチライトクラブ」は霊的なコミュニティになれるのか?

栗原一芳先生が2024年11月7日にブログで残したメッセージがあります。

<以下、栗原先生のブログから引用>

https://asktmc.blogspot.com/2024/11/blog-post.html

ズバリ言ってしまえば、教会とは、神に向かう霊的なコミュニティなのである。教会とは人々のこと。そして、霊的とは砕かれている事。ここで鍵となるのは「砕かれている」(Brokenness)こと。霊的な人は愛の人。霊的コミュニティを出現させられる人はこういう人だ。
– Broken but Strong (砕かれているが、強さがある)
– Venerable but have Hope (弱さをわきまえているが、同時に希望を持っている)
– Respectfully Curious (他人を尊重しつつも、深い関心を持つ)
そこでは批判もなく、道徳論もなく、お互いに主を見上げることをする。ワーシップの心がある。SPIRITUALでなければ、単なる、仲良し関係か、仕事関係か、いやし、慰めを求める傷のなめあい集団か、神なきカンセリングか、道徳論集団になってしまう。
真の霊的コミュニティは、弱さをわきまえながら、正直に、謙虚に、あきらめず、主のもとに共に集い、主とお互いにコミットし、主と共に神に向かって人生の旅を共にしてゆく仲間たちなのだ。

<栗原先生のブログから引用、ここまで>

「弱さをわきまえながら、正直に、謙虚に、あきらめず、主のもとに共に集い、主とお互いにコミットし、主と共に神に向かって人生の旅を共にしてゆく」
私たちは、神様への甘えも含めてお互いを尊重しつつも、一歩も聖書から離れることなく、聖書の言葉ひとつひとつを丁寧に学び続けたという事実、また、その学びが独りよがりや勝手な聖書解釈に陥ることがないように、常に「牧者」に従い道を迷うことがなかった、ということを誇りに思っています。
その結果、砕かれているが、強さがあり、弱さをわきまえているが、同時に希望を持っていて、他人を尊重しつつも、深い関心を持っている、まさにこのような人に成長できたのではないかと思います。
ちょっと話がそれますが「傷のなめあい集団」・・・、栗原先生は、時に衝撃的・刺激的な言葉で、気づきを与えてくださいます。栗原一芳先生と直にお話ししたことがある方はご存知の通り、そのような刺激的な言葉を使わずとも、栗原先生は常に穏やかな問いかけを通じて、私たちを単なる「傷のなめあい集団」にならないようにと導いてくださいました。本当にこれは感謝すべきことです。そのような栗原先生の静かなる導きのおかげで、現在の「サーチライト@秋葉原」の集まりでは、教会には通っていない、洗礼も受けてはいない、けれども「サーチライト@秋葉原」のホストあるいはメンターとして、その運営に積極的に関わってくださる方々が育っています。サーチライトクラブは霊的なコミュニティとして、一歩ずつ着実に成長しています。グループの成長が特定の積極的なリーダーによって導かれたのではなく、まったく自然な流れで整えられてきたことは、これもまた、奇跡だったと言わざるをえません。
このような奇跡の繰り返しは、私たちに与えられた神様の祝福そのものです。私たちはその祝福についてもう一度冷静に思い返し、個々人がその時その時に、どのように神様に導かれていたのか振り返ってみたいと思うのです。それは恐らく明示的な神の啓示(神様の声が聞こえたとか)ではなかった可能性が高いのですが、間違いなく神様によって用意された場所に集わされてきたという確信を持ち続けたいと思います。

リーダーシップ

さて、サーチライトクラブも、エクレシアも、驚くべきことはそこには「特定の積極的なリーダー」が存在せず、全てが自然発生的だったという奇跡です。
もちろん、牧者は誰なのか、グループの代表者は誰なのか、という質問には一同が同じ答えを持ち合わせているかもしれませんが、これは単なる役割分担にすぎません。
冷静に思い返せば、2012年にサーチライトクラブが始まった時から、多くの宣教師が遣わされ、宣教師が入れ替わるたびにプログラムも変わってきましたが、私たちのグループは(サーチライトも、エクレシアも)、その根底に「聖書を通じて人生の目的について考える」という大きな指針のほかには何のルールもなく、その時々の変化に応じて、各人が神様から示された使命を粛々とこなしてきただけです。そこには、神様によるリーダシップしか、なかったように思います。

ここで少しだけ、リーダーシップについての誤解にも言及しておきたいと思います。
聖書の中にはいくつもの啓示とその啓示に忠実だったリーダーが示されていますが、現代においてあたかも神の啓示かのように語る「リーダー」には、少々懐疑的です。
霊的な群れに必要なリーダーシップは、一般的な組織において意思決定を行うリーダーシップとは違うと思うのです。

私たちのグループは(サーチライトも、エクレシアも)、リーダーシップが神様にあることは間違いありません。
ただ個々人の「役割」において(それが明示的な神の啓示がなかったとしても)リーダーシップが求められる場合がああります。個々人の「役割」におけるリーダーシップを、ここでは「自発的なリーダーシップ」として、啓示的なリーダーシップとは区別しておきたいと思います。

「神の羊の群れ(教会)を養いなさい。いやいやながらではなく、喜んで、その務めに当たりなさい。利益を求める気持ちからでなく、熱心に、喜んで、羊の群れを飼いなさい。 支配的にふるまわず、良い模範を示して、彼らを指導するよう心がけなさい。」

ペテロの手紙Ⅰ 5:2-3、リビングバイブル

信仰における個々人が果たすべきリーダーシップとは、神様のご計画に沿って、そのご計画に忠実に物事が運ぶように執り仕切る、自発的な働きではないでしょうか。
具体的には、誰かに伝道をするそのタイミングにおいて、「その時」「その場所」のリーダーシップは、信徒ひとりひとりなのです。そして、さまざまに異なるシーンにおいて、リーダーシップをいかに発揮するかは、「個々人が神様から与えていただいた賜物」と「神様から示された使命」によって、無限に正解があるわけです。だから「何が正解なのか」と恐れることなく自発的にリーダーシップを発揮すれば良いと思うのです。
しかし、リーダーシップを発揮するタイミングは、自分にとって都合の良いタイミングではありません。神様によって示されるタイミングを看過しないように常に気をつけておく必要があるのだと思います。神様の「どのような使命が」「いつ」「誰に」示されるのか、それは誰にもわかりません。エクレシアで学び励まし合うこと、それはすなわち、突然に神様から使命を与えられた時に、何も恐れることなく「自発的リーダーシップ」を発揮できるよう準備することにほかならないと思います。

アクションプラン

興味深いことに、サーチライトクラブにせよ、秋葉原エクレシアにせよ、私たちが取り組んできたことの名称は、いつも後付けだったことです。これはどのような意味があるのでしょうか?
私たちは「あれをやりたい、これをやりたい、これこそが神様が求めていることだ」と誰一人として、言い出していないということです。そして、いつも組織だって何かをしようとしたこともありません。
そうです、私たちは組織ありき、わかりやすい目的ありきで、何も始めていないし何もやっていないのですが、目の前のすべきことには疑うこともせず、疲れ果てることもなく、諦めもしませんでした。

「正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。 」

ガラテヤ人への手紙 6:9、リビングバイブル

一人一人が、それぞれに神様から示された使命に忠実に向き合い、神様の計画に沿って歩んできたからこその、現在の姿なのだと思います。そして、その成果が顕著に目に見えるものでないとしても、刈り取る時はいずれ必ず来ると確信が持てるのです。サーチライトクラブの集まりで信仰を強要することは絶対にないのは、刈り取る時は正しい行いの結果であることを知っているからです。

さて、私たちの活動に後から名称がついたことにも、注目しておく必要があります。
「サーチライトクラブ」は、アウトリーチに主眼が置かれています。
「エクレシア」は、聖書への立ち返り・学び、そして励まし合い(霊的なコミュニティー)に主眼が置かれています。
私たちは「霊的な繋がりの重要性について理解し、そのことを広く伝えていく」という点において、サーチライトクラブとエクレシアは両輪であると考えています。私たち自身が、そのような「両輪」による実践的な信仰のサイクルにたどり着くためには、膨大な祈りの時間が必要でした。
10年以上の月日を経て「自分の思惑に依るのではなく、神様への絶対的な信頼を拠り所にこの二つの両輪を大切にしなさい」という教訓が示されたのだと思います。そして、「サーチライトクラブ」と「エクレシア」という明示的な名称も、私たちのその「両輪」が十分に機能するよう準備が整えられた時、自然とそう呼ばれるようになったのだと思います。つまり霊的コミュニティの成立は神様から示された使命に忠実に向き合い、神様の計画に沿って歩んだ結果に過ぎないということです。

「サーチライトクラブ」の思想を受け継がせてくださったトニー・ウッズ先生、「秋葉原エクレシア」の思想を遺してくださった栗原先生へ、心から敬意と感謝の気持ちを持ちつつ、これからは私たち一人一人が、より一層自発的に神様の働きに関われるよう、またそれが私たちの都合によるものではなく、神様のご意思に沿って果たされるよう、祈っていきたいと思うのです。