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最近、伝道と御言葉の関わりについて、考えさせられることが続いています。前回お伝えしたように、私は「人を急がせない」「押しつけない」という、比較的ゆるやかな姿勢で伝道に関わりたいと願っています。一方で、「御言葉なき伝道には意味がない。御言葉こそが中心である」という指摘にも、深くうなずかされています。この二つをどう両立させるかが、今の自分にとって大きな課題になっています。

なぜ御言葉が欠かせないのかと考えるとき、やはり私たちの信仰の土台は「自分の感覚」でも「誰かの体験談」でもなく、「神のことば」だからだと思わされます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」(ローマ10:17)とあるように、福音も、信仰の成長も、最終的には御言葉に触れることなしにはあり得ません。もし御言葉に立ち返ることがなければ、どこかで「自分の好み」や「自分に都合の良いイエス像」によって信仰を形づくってしまい、唯我独尊的な価値観や、聖書からずれた信じ方に陥る危険すらあると感じています。

私たちは今、「サーチライト」という食事会を定期的に開いていますが、そこではとりなしの祈り以外に、「聖書の学び」という形の時間はあえて設けていません。私たちクリスチャンが未信者の方と自然体で交わり、聞き、語り合う姿を見てもらう中で、少しずつ「この人たちの信じている神様って、どんな方なんだろう」という興味が心に芽生えていったら、そのときに初めて次のステップへ、という流れを大切にしたいと考えているからです。

実際、このサーチライトを通して、次第に私たちの信仰に対する抵抗感が薄れ、自然と聖書の話題が出てくることがあります。そういう会話の中で、ごく自然な形で自分の信仰や聖書の一節を紹介できることもありますが、それでも「さあ、次は教会に来て、礼拝に出て、聖書を学びましょう」と、すぐに一段階上のステップに誘うのは、多くの人にとって、やはりハードルが高いと感じています。

ありがたいことに、興味を示してくれた人たちに対して、多くの教会の牧師先生方が関心を持ってくださり、フォローアップのために協力したいと申し出てくださっています。ただ、「興味が湧いたらすぐに教会へ」とだけ考えると、「まだそこまでは……」と感じる人が多いのも現実です。実は、私はこの過程を少し安直に考えていたところがあり、「あとは牧師にお任せしよう」と思っていたのですが、明らかに“間”を取り持つステップが足りていないと、最近は考えるようになりました。

そこで、今私が模索しているのは、「御言葉を大切にしつつ、なお緩やかなステップを刻めるような関わり」をどう具体的な形にするか、ということです。いくつか考えていることを、提案という形で書かせていただきます。

一つは、サーチライトのような「食事会」と「教会の礼拝」の間に位置する、小さな「聖書に触れる場」を用意することです。たとえば、月に一度くらい、希望者だけを対象にした「聖書に親しむ夕べ」のような時間を設けることが考えられます。そこでは、説教のような一方的なメッセージではなく、ごく短い聖書箇所を一カ所だけ読み、その内容について感想を分かち合ったり、信徒による証を聞いたり、質問を自由にしてもらったりする、対話的で開かれた時間にします。形式としては「学びの会」よりも、「聖書に少し触れてみるお試しの場」といった雰囲気がふさわしいかもしれません。

もう一つは、教会の建物や「礼拝」という言葉に抵抗のある人にとっても参加しやすい、「小規模な集まり」を用意することです。たとえば、数名の未信者と数名のクリスチャンが一緒になって、「人生の問い」や「希望」「不安」といったテーマについて分かち合い、その中で短い聖書のことばを一つ紹介し、「聖書はこう語っている」と手渡す形です。その場で結論を求めたり、「決心」を迫ったりはせず、あくまで御言葉との“出会いのきっかけ”を提供する場として位置付けます。

また、牧師先生方には、いきなり「教会への招き」だけではなく、こうした「中間ステップ」にも関わっていただけたらと願っています。たとえば、先ほどの「聖書に親しむ夕べ」や小さな分かち合いの場に、月に一度ゲストとして来ていただき、短く聖書を開いていただいたり、質問に答えていただいたりする。そのような関わりの中で、参加者が「この先生が担当している教会なら、一度行ってみてもいいかもしれない」と自然に感じられるような関係づくりができたらと考えています。

大切にしたいのは、どのステップにおいても、「御言葉が真ん中にある」ということと、「人の心のペースが尊重されている」ということの両方が守られていることです。御言葉が語られない“なんとなく良い交わり”だけでは危ういですし、心の準備ができていない人を、御言葉によって急き立てるような関わり方も、やはりどこかで歪みを生むと思っています。

「御言葉こそが重要である」という点では、私もまったく同じ思いです。ただ、その御言葉に、人がどのような距離感で、どのような順序で近づいていくのかについては、もう少し細やかな「橋渡し」が必要なのではないかと感じています。食事会、対話的な聖書の場、小さなグループ、そして教会の礼拝や正式な聖書学び――それぞれがバラバラではなく、一つの道筋としてつながっていくような働きを、祈りつつ模索していきたいと願っています。

拙い提案ではありますが、今の自分が与えられている場を通して、「緩やかさ」と「御言葉の中心性」の両方を、少しでも聖書的なかたちで実現できないかを考えながら書きました。主が、この小さな試みをも御手の中で整え、必要なステップを一つひとつ示してくださるようにと願っています。そして、同じ思いを抱く兄弟姉妹とともに、焦りではなく信頼をもって、人々を御言葉へといざなう道を、少しずつ備えていけたらと願っています。