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聖書的な弟子訓練について考えてみたこと(2)

聖書的な弟子訓練について考えてみたこと(2)

最近、伝道と御言葉の関わりについて、考えさせられることが続いています。前回お伝えしたように、私は「人を急がせない」「押しつけない」という、比較的ゆるやかな姿勢で伝道に関わりたいと願っています。

一方で、「御言葉なき伝道には意味がない。御言葉こそが中心である」という指摘にも、深くうなずかされています。この二つをどう両立させるかが、今の自分にとって大きな課題になっています。

なぜ御言葉が欠かせないのかと考えるとき、やはり私たちの信仰の土台は「自分の感覚」でも「誰かの体験談」でもなく、「神のことば」だからだと思わされます。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」(ローマ10:17)とあるように、福音も、信仰の成長も、最終的には御言葉に触れることなしにはあり得ません。もし御言葉に立ち返ることがなければ、どこかで「自分の好み」や「自分に都合の良いイエス像」によって信仰を形づくってしまい、唯我独尊的な価値観や、聖書からずれた信じ方に陥る危険すらあると感じています。

私たちは今、「サーチライト」という食事会を定期的に開いていますが、そこではとりなしの祈り以外に、「聖書の学び」という形の時間はあえて設けていません。私たちクリスチャンが未信者の方と自然体で交わり、聞き、語り合う姿を見てもらう中で、少しずつ「この人たちの信じている神様って、どんな方なんだろう」という興味が心に芽生えていったら、そのときに初めて次のステップへ、という流れを大切にしたいと考えているからです。

実際、このサーチライトを通して、次第に私たちの信仰に対する抵抗感が薄れ、自然と聖書の話題が出てくることがあります。そういう会話の中で、ごく自然な形で自分の信仰や聖書の一節を紹介できることもありますが、それでも「さあ、次は教会に来て、礼拝に出て、聖書を学びましょう」と、すぐに一段階上のステップに誘うのは、多くの未信者の方にとって、やはりハードルが高いと感じています。

ありがたいことに、サーチライトを通じて聖書や神様に興味を示してくれた人たちが現れると、多くの教会の牧師先生方が関心を持ってくださり、フォローアップのために協力したいと申し出てくださっています。ただ、「興味が湧いたらすぐに教会へ」とだけ考えると、「まだそこまでは……」と感じる未信者の方が多いのも現実です。

実は、私はこの過程を少し安直に考えていたところがあり、サーチライトの次は「適切な教会をご紹介して、牧師にお任せしよう」と思っていした。しかし明らかに“間”を取り持つステップが足りていないと、最近は考えるようになりました。

そこで、今私が模索しているのは、「御言葉を大切にしつつ、なお緩やかなステップを刻めるような関わり」をどう具体的な形にするか、ということです。

「証を分かち合う会」について

まず大切にしたいのは、教会の礼拝へ直接つながる前の段階として、安心して人の歩みに触れられる場が必要ではないかということです。

その一つの形として考えているのが、「証を分かち合う会」です。

これは、どちらかといえば“証”を中心とした対話の場です。

信徒がどのような経験を通して神と出会ったのか、どのような葛藤や祈りを通ってきたのかを分かち合い、参加者が自由に質問したり、感想を語ったりできる、開かれた集まりをイメージしています。

形式としては、「学びの会」というより、サーチライト(食事会)の延長線上にあるような、柔らかな交わりの場に近いものです。まだ教会に馴染みのない方にとって、いきなり礼拝や体系的な聖書の学びに入るよりも、まず「この人たちはなぜ信仰を持っているのだろう」と具体的な歩みに触れることが、大きな入口になる場合があります。

もちろん、単なる体験談の共有で終わるのではなく、その証の背後にある神の導きや御言葉にも自然に触れられることを願っています。しかし中心にあるのは、あくまで「人がどのように神と出会ってきたか」を分かち合うことです。

対面でも始めやすく、誰でも気軽に参加しやすいことも、この集まりの特徴だと思っています。

「聖書に親しむ夕べ」について

一方で、「証を分かち合う会」からさらに一歩進み、より直接的に聖書そのものに触れる場として、「聖書に親しむ夕べ」のような時間も必要ではないかと感じています。

こちらは、“聖書”を中心とした入門的な集まりです。

ただし、一般的な聖書研究会のように体系的な知識を学ぶことを目的とするのではなく、「まず聖書の言葉に触れてみる」ということを大切にした、小さく開かれた入口として考えています。

たとえば、短い聖書箇所を一カ所だけ読み、その内容について感想を分かち合ったり、素朴な疑問を自由に話したりする。必要に応じて、牧師先生や信徒が短く背景を説明する――そのような、対話的で負担の少ない形です。

ここでは、「人の証」よりも、「御言葉そのもの」に重心があります。

しかし同時に、聖書の言葉によって人を急き立てたり、結論を迫ったりする場にはしたくありません。聖書にまだ馴染みのない方が、自分のペースで御言葉に触れ、「もう少し知ってみたい」と自然に思えるような空気を大切にしたいと願っています。

また、牧師先生方にも、礼拝への招きだけでなく、このような中間的な場に関わっていただけたらと願っています。たとえば、「聖書に親しむ夕べ」にゲストとして来ていただき、短く御言葉を開いていただいたり、質問に答えていただいたりする。そのような関わりの中で、参加者が「この牧師が担当している教会なら、一度行ってみてもいいかもしれない」と自然に感じられる関係が育まれていくのではないかと思っています。

二つの場を通して願っていること

この二つの集まりは似ているようでいて、それぞれ役割が異なります。

  • 「証を分かち合う会」は、人の歩みや証を通して、信仰に触れる入口です。
  • 「聖書に親しむ夕べ」は、御言葉そのものに親しむための入口です。

ただ、どちらにも共通して大切にしたいのは、「御言葉が中心にあること」と、「一人ひとりの心のペースが尊重されていること」です。

御言葉が語られない“なんとなく良い交わり”だけでは危うさがありますし、反対に、心の準備が整っていない人を御言葉によって急き立てるような関わり方にも、どこか歪みが生まれてしまうように感じています。

食事会、証を分かち合う会、聖書に親しむ夕べ、小さなグループ、そして礼拝や正式な聖書学びへ――それぞれが分断されたものではなく、一つの流れとしてつながっていくことを願っています。

焦りではなく信頼をもって、人々が少しずつ御言葉へ近づいていけるような橋渡しを、祈りつつ備えていきたいと思っています。